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介護なび 那覇と浦添

世に住む日々を問う・・

8月19日の記事

金城タツローの幸福維新より

転載させていただきます。


8月19日の記事

2013年08月15日

8月15日の終戦記念日に、八重山で伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑序幕式
及び慰霊祭が執り行われています。

私は仕事で沖縄本島を離れることができず、ここから伊舎堂用久中佐
率いられました誠17飛行隊はじめ、石垣島から特攻された31名の英霊に
感謝の祈りをささげさせていただきました。

私も大東亜戦争を正しく知らない一人でありましたので、顕彰碑の建立は、
正しい歴史を国民に知らしめる意味で大変重要な事業だと思います。

今から8年前、私は知人から伊舎堂中佐の御活躍を著した「千尋の海」と
いう書籍をいただきました。


8月19日の記事

その方は私に、「一番最初に特攻攻撃で米艦隊を撃破したのは石垣の人」
であることを殆どの県民が知らないということと、県民が英霊に対し感謝を
忘れていることを大変憂えておられました。

沖縄では「日本兵」というと、県民を苦しめた鬼の代名詞のように言われ
たりしますが、家族・県民を守るために命をささげて勇敢に戦って下さった
のが、「県出身の日本兵」であったということは、先の大戦の意味を正しく
知るうえで大変重要なことだと思います。

沖縄戦は「日本兵と米兵が激突し、沖縄県民が巻き込まれた戦い」だと
多くの県民は思わされています。「日本兵」と「米兵」と「県民」の三つ
をステレオタイプで論じているものがほとんどです。

しかし、沖縄県民も「日本兵の家族」であったのは間違いのない事実
なのです。

それとは別に、「日本兵も軍の強制により戦わざるを得なかった被害者で
ある」という考え方もありますが、伊舎堂用久中佐の辞世の句を読ませて
いただくと、自ら進んで命を捨て家族や同胞、国家を守ることこそ誇りで
ある、という気概と、家族を悲しみにくれさせてはならないという思いや
りを感じるのです。

その中に、国家権力によって強制的に戦うことを運命付けられた悲哀のよう
なものは微塵も感じられません。

まさに私は伊舎堂中佐はじめ、隊員の皆さまが主体的に潔く戦ったその
お姿に、現代人が学ぶべきものがあるのではないか、と思われてしょうが
ないのであります。

そもそも我が国は戦争すべきでなかったという意見もあります。

しかし、当時米国が対日石油全面禁輸を発動し、石油が一滴も入らなく
なり、陸軍は国家予算を投入して人造石油を作ろうとまでしていたそうです
が、錬金術の奇跡は起きませんでした。あのまま開戦を決意しなくとも、
ライフラインを絶たれた日本は、米国の植民地にされていたであろうという
指摘もあります。

やはり、自衛のための戦争だった、ということを認めるべきなのではない
でしょうか。

指折りつ待ちに待ちたる 
機ぞ来る 
千尋の海に散るぞたのしき 

知覧の特攻記念館には、第一番目に伊舎堂中佐のご遺影と辞世の句が展示
されておりました。涙あふれて合掌拝礼し、慰霊顕彰させていただく際に、
自らに新たな志が立ち上がるのを感じました。


英霊は後世いつまでも尊いお仕事をされている、
ということを確信しました。

転載、記事です。

 
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浦添市民。趣味は読書、考え伝えること。妻子4人家族。
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